
テレビに関してすこし思うところがありのろのろ書いている。(長い論理の一部なので続けないと意味があまりないのだけど。)
どうも最近に日本では何につけ神経過敏な反応が報道に関してあるような気がちょっとするけれども、また一方ではまあイタリアでもそうかなということがある。それは、最近の反動的な傾向のなかで、乱暴な斬って捨てるような雑駁な調子のひとが何か頼りになるというような感じがあるのではないのだろうか。
実際に性格の力というのかそういうひとに物が見えているという場合もあることではあろうけれども、結局は実際の例が政治家のほうなどで出てみると、やはりそういう慎重さの欠けたべらんめえといういうのはとても公に発言をする立場にある資格がないということがわかってきたように思える。(最近もある著名団体が解消したことに「天罰だ、ざまあみろ」と発言した別の団体の代表がいたけれども、反感を感じていると後日謝意が報じられていてみっともないことであった。関係者間の個人の感情だけであってファンや参加者、一分野の利益がまったく顧慮されていない。言い方を変えるだけで個人の見解として通るものになるのだが。)
何を考えていたかというと、つまり報道のほうでも(お粗末な)煽動政治家を思わせるそういうのが表に出てきたように思えたのであった。イタリアでも一番よく出てくるキャスターがちょっとそういう感じがあって個人的に見られないのだった。まあイタリアではとくに雑駁な感情的表現はテレビでも何でも当り前で自分にとっても普通だけれども、司会者、とくにキャスターのような立場の人だと耐えられない。
過剰演出が(積極的なレベルで)ものを見えなくする、というように見れば商業的な今の文化の多くに当てはまる気がする。(たとえば最近タイタニックに匹敵するような規模のイタリアの沈没船のドキュメンタリーを見て打たれたけれども、当時は好きだった映画の「タイタニック」を見たときにはほんのすこしでも現実のタイタニック号事件について考えなかった。ああした演出を私はハリウッド的な「すごいでしょ主義」とか「圧倒主義」とか呼んでいて当時から悪いとは思っていたが、話はいいなと思ったのだった。)

こないだイタリアのテレビはドキュメンタリーが多くて充実していると書いたのだが、じっさいその次の日にはダイアナ妃のものを見ながらコマーシャルのときはべつのチャンネルでチャールズ皇太子の母エリザベス二世についてのものを見ることができた。ダイアナ妃の物語には高潔なものがあると同時にひじょうに人間的で卑近なものがある。じっさいにはメディアがいろんな側面を暴き立てたということもあるだろうし、陰謀説があるとしてもやはりあの最後の事件はメディアの責任やモラルについてのつよい意識を喚起し続けてほしいと感じる。
(ただ番組を見ていて思ったのが、テレビ番組のBGMで有名な曲ばかりを使うと非常にわずらわしいということだった。それらの曲はつよいイメージをそれぞれ持っているので本編への意識をそらされてしまう。それなので最後に「風のなかのともし火のように」と言って "Candle in the wind" が流れ出したときには、ひきこまれていたのだが「もういいよ」と言ってテレビを切ってしまった。)
とにかく、 映画、外国のものをふくめた刑事や法廷もののドラマ、クイズ番組に並んでドキュメンタリーが多くて勉強になるのだが、日本の場合のようにスタジオのトークに解消してしまうようなところがない(専門家はむしろ必ず登場する)。これは反応や考えることも同時にテレビに任せていると解釈できる気もするが、どちらにせよ自分については個人的にそのほうが精神的に不消化になっていると感じる。また時間を十分にとっていてどれも日本の特別番組くらいの長さがある。ドキュメンタリーはすくなくともきっかけとして感情的な興味・関心のほうからさまざまな領域を学び知ることができる大事なものだと思う。
つづく。
![0612[1]hh.jpg](http://blog-imgs-16.fc2.com/g/o/r/gordianknot/0612[1]hh.jpg)
そういうわけで映画「パプリカ」を観ました。
好評ですが一部で混乱が激しすぎるという評がちらほらあったようなのでどうかと思ったのですが、筋は実際には単純明快でした。
ただ境界が外れる時点があってそこだけ分かれば何も混乱するところはないです。あと小さいことではバーのふたりが原作者の筒井康隆さんと監督の今 敏さんだという洒落(しゃれ)を知らないとちょっと何だろうと思うかもしれない。
それに今さんの映画は鋭い時代批判や人間の葛藤が核心的な重厚さを持っていると思います。今回の人間劇はさびしいながらもポジティブな感じでした。
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以下は絡みながらの自分の考察、ないしはひとつの悪い夢です。
「妄想代理人」はそれに対してもっと恐ろしいものでしたが同時に様々に「彫り」も深いものだったように思います。
いずれにしても今さんの作品についてはご本人が書いていらっしゃることがいちばん深くて興味深いのですが、ここでこの作品の解釈において大きく敷衍してみると、作品中で妄想の産物の暴漢に対して「あなたは偽りの安らぎを与えるあのマロミとやらと同じなのです」と言われるところがありますが、このふたつを言葉の意味を広範にとらえたうえで、それぞれ「ロック」と「ポップ」だと考えることができるようにも思うのです。もっともこれは要するにひとつの疑念、懐疑、予感される「影」ですが。
イメージが現実で暴威をふるうという事としては例えば、こうしたことについては行きすぎの反応もあるようですが、銃乱射事件が特定の映画のイメージに酔って実行されたというような事が言われています。それはあくまできっかけであるし通例そこまで人は分別がないということはないでしょうが、逆に顕著な形をとらないでも潜在的な影響があるかもしれません。いずれにしても過敏で性急な反応はどうかと思いますが。
まあこれをロックの概念に包含させるのは無理かもしれませんが、だから「影」であり夢なのですが・・又そこまで考究する余裕が今の自分にないのですが。
もうひとつのポップについて考えるなら、どうもそのように思われるのは、商業的な演出のものというのはしばしば扱われている事柄そのものに対しては感情をむしろ麻痺させられるところがあるのではないだろうか、ということです。極端ではっきりしたものとしては誰でも感じずにはおられないようなコマーシャルのひどい空々しさです。
そして長い時間軸で見るなら、流行には回帰があるとは言っても、一時多くの感情を託されたものが流行の過ぎたあとには嫌悪の的になるという事情があります。せいぜい二三十年前のものを見て、非常に短時間でわれわれはずいぶんと擦り切れてしまったのではないのだろうかと思います。このために例えば、日本人ほどこうした過程を踏んでいないであろう韓国の人と物を、失ったむかしの自分の何かを感じるように愛好するということが起こるのではないか。
このことには世代間の断絶と反動という事と絡んでいるでしょうが、この世代間の距離や温度差はべつの作品「千年女優」のなかで描かれていました。あまりこのことをしかと扱ったものは見受けないようにも思われます。この過程にはその中にいるわれわれ個人には容易に自由にはならないような時代の必然があったと言えるでしょう。−
![0167_1_0013[1]hhh.jpg](http://blog-imgs-16.fc2.com/g/o/r/gordianknot/0167_1_0013[1]hhh.jpg)
So, I've watched the movie "Paprika".
Although generally reviews are fevorable I've read here and there that it is too confusing, but infact the plot is quite simple.
There is a moment the border gets broken, that might be only point of confusion. As for littele thing, if one doesn't know that two characters of the bar are the directer and the original author, they might appear suspicious.
I think in the movies of Mr. Kon the acute critisim on times and inner conflicts of characters have thickness and are "nucleate". This time human drama is littele sad but gives positive impression.
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The following is my related consideration, or, one bad dream.
"The Paranoia Agent" series was, I think, something more dreadful, but also in various senses "carved" profoundly.
In any case rigarding works of Mr. Kon, what he himself writes is most interesting and profound. But here extending interpretation on this work, rigarding what's in the movie said to the street attacker born of delusion : "You are same as that Maromi (comic animal character), which offers the false peace of mind.", I think one might say, that these two things correspond to POP and ROCK. However this is just one suspicion, a doubt, the shadow that I foresee.
About the idea that the images might rage in the real world, for example, they say that the shooting has been planned and put to practice being inspired by a specific movie (altough this kind of accusation seems to go sometimes too far) . I suppose this is only a "trigger", and normally people are not unreasonable like that, but maybe contrarily, it might influense people potentially without conspicious appearanses (?). Anyway I'm doubious about oversensitive and hasty responses.
Maybe to include this in the concept of Rock is excessive, so I said this is only a "shadow" and a dream - and also I am little too busy to examine it right now.
Thinking of another principle, POP, comes a doubt to me, maybe things which are commercially directed paralyse us rigarding the very things that they deal with ? A clear and extreme example is hollowness of commercial messages that any of us sense.
Looking at it in the long term, although trends follow a circular path, there is the fact that the things to which people put much emotion once, when trends are over, they become something to be abhored. Looking at the things at most 20 or 30 years ago, I feel that after such a shot time we have got jaded quite much. Maybe for this reason , I guess, some people recently love things and people of Korea as though they see there something lost of themselves ?
I think this is related to gaps and reactions between generations, and this distance and difference of "temperature" were discribed in another movie, "Milleniunm Actress". I supopose there are not many things that deal with this theme soundly. In this process there must have been the neccesity of time, from which single individuals hardly are free. -
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