GORDIAN KNOT ゴルディオスの結び目
谷崎潤一郎と宮沢賢治の短歌

twilight silhouette by Ilikethenigh





 前回、おさらいをしてから前進と書いたのだが、谷崎潤一郎の和歌の回を抜かしていたので、谷崎氏のものを復習するほかにもうひとつを加えて、さらに宮沢賢治の和歌の鑑賞を始めようと思う。
 それにしても、批評めいたことを行うのは自分にとって和歌においてやりたい、よいと思う指標をできるだけ明確に確認するために、論理のかたちでその理念を刻んでみているというわけである。


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  宮沢賢治
 


 賢治の和歌はこだわりない口語的な要素もあるがだいぶ古典的な要素も強い。独特な感覚的要素は童話や口語詩から予想されるよりは少なく、むしろ国語的には彼の作物のなかで一番変則性がなくてわかりいい。それに、近代の短歌において口語的なリアリズムの獲得と同時に危うくなった感覚的な詩の質ということについては、比較的にほかの歌人より立ち勝っているということができるように思う。賢治の場合は万葉調や何かへの執着も固定的にはないし、逆に裸の口語的リアリズムとでもいうような、改革的な主義を感じさせるモダニズムも読み取れない。
 


木々の芽はあまりにも青し薄明のやまひを出でし身にしみとほり


どこまでも検温器のひかる水銀がのぼりゆく時目をつぶれりわれ 
    

                                       

 検温器の歌はまるで途中までが口語詩であるような趣になっている。どことなく流行歌風にロマンティックに決まっている、というようにも読める。ドラマということ、しかし写生和歌としてのリアリズムが基底にある。全体としてそこにあるのは「病気だ、どうにもならんか」というせちがらいことである。
 輝く水銀という綺麗なもの、しかしそれが冷酷なことがらを示しているのであって、作者は見ていられないのである。

 病気関連の歌はたぶん数的には多くなっているが、病気や医療器具の名称などを織り込んだものは、やまいだから感慨があるのは暗黙の了解というほどのものなのだが、しかしやはりうまく詠まれていることはまれだと思う。それは正岡子規や石川啄木が思い切りぶっきらぼうにそういうことをも詠んだのは、その行為自体の新しさが味や意味をもったこともあろうし、またこれらの作家の人格や歴史性をふまえて感じられるものがあるのだと思うが、原理としては「散文的」でまずいものだと思う。つまり感慨ある体験であるといっても報告的な文面を詩として通すという慣習になればそれは芸としては退化であろう。かといって観念的な美辞麗句で飾るというよりは、感覚的な側面から詠むということが必要なのではないだろうか。
 




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谷崎潤一郎


 今絶ゆる母のいのちを見守りてお関と父はよびたまひけり   


 切々としていて、何とも言えない。古風なものがまだその余風をのこす時代にあってこのような歌い方は新鮮であったろうと想像するが、斉藤茂吉氏の「たらちねの母は死にたまふなり」よりも、茂吉氏の理論に沿った上で、枕詞なしでも、より一層万葉的なのだと言う事もできるのではないだろうかと思う。(つまり、「たらちね」の歌はもっと様式的な完成度があるが、こちらの歌のほうがむしろより「観入」ということがそこにあると思われる。)



 茅淳の海の鯛を思はず伊豆の海にとれたる鰹めしませ我妹    


 こまかな詮索はいちおう前回にした。とにかく洒脱で一種の傑作であると思う。いかにも恋人に戯れているという感じのものである。吾妹ワギモ(わたしの親愛なる女[ひと])ということばが、ここではたとえ冗談めかして言っているとしてもぴたりとはまっており、うまく万葉調を獲得していると言えるのではないだろうか。





Photo by Ilikethenight on flickr
近代和歌ノート

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 ブログで和歌の鑑賞を勉強・研究としてやっていたがすぐに中断していたので、前二回でやったものをおさらいして再開しようと思う。 




 うつそみに神のゆるさぬゑにしとはかねて思へど猶し悲しも     伊藤左千夫



 というのが伊藤左千夫氏のものでは現在までのところ自分には抜群に好きだ。
 それを見ると、カ行とサ行が全体において歯ごたえのあるかたちで繰り返されているのがわかる。それがある種の完成した音楽性でまとめているのだろうと思う。しかし、それは言葉の他の要素もあってしっくりするようにまとめていくうちに出来てくる物だと思うから、それでつくっていくという筋のものではないだろうと思う。
 
 神というのは内的に言うと良心(「超自我」・理性)は容易にゆるさないという意味でとれるし、またうつそみ、現世そのものが許さない、というような、死のむこうを見渡した視線も感じられる。そうすると、歌舞伎などでよく表された齟齬、出口の無いジレンマの世界にここでは入っている。

 「たしかにこの世で許されないことだとは思うけれども、それでもこのいとしさをおさえることはできない。」というようなことなのだろう。

 「かなし」 は上代では悲しさ−愛しさどちらでもあった。せつなさ、か。

・猶 なほ=それでも   ・し=強調の助詞
・ゑにし=えにし縁、結びつき





昔見し面影もあらず衰へて鏡の人のほろほろと泣く        正岡子規



 正岡子規氏からはまずこれをとったのだが、まず手始めとして、こういう才気が鮮やかなものは便利だ。しかし面白い例だと思う。ここではごく単純な情念がうまく表現されているのは鏡ということを使ったことにあって、それが芸というものを表現してもいる。様式のある芸術というのは、鏡のように澄んだ磨かれた道具を使っていて、ただに感傷にひきこむべく生な意識をむきだしにしようというものでない。むしろ、それが長い生命をもってそこに封入されるためには距離をおいて、リズムと幾何学のある全体で表現を行う。しかもそれでいてそれは有機的であって、記号化された感情ではない。
 そういう意味で、ここには生な感情がカタチというものの冷静さと対比されつつ融和しているということが言えそうだ。
 この歌をレンブラントの自画像にくらべてみる、ということも不可ではないと思う。










 このお話の素描は今回でいちおう終わりです。



 第四回 




 「熊の社」に熊は正座して書をしたためておりました。
 「一心不乱」
 さて目の前の猿に語り掛けました。
 「わたくしは以前人間でありました。それはすこしも悔いておりませんが、熊となることを得まして、より完全なる境を得たかと思っております。」 
 猿は答えました。
 「あなたは大いなる熊になられた。自然があなたに宿した力はあなたを鷹揚にしました。われわれにはあなたはおそるべきものとなられたのです。」
 「いえ、自然という物は、いずれにしても戦いの歴史であります。」
 しばらく山の風が木々の葉をゆらす音がしずかにしました。
 「それでこれからどうなさるおつもりですか。」
 「これからまっすぐに、清めの儀にうつりたいと存じます。」
 「ああ、そうですか。ご決意のことでございますね。」
 「はい。けれどもここでの三年はたのしいものでございました。ある朝などは、起きてみますと縁側に一山の木の実が置いてある。それにすこしはなれてこんどは糞がしてある。それで前の日にどの猿とどういうことをしたかを思い出して笑ってしまったものでした。」
 「それは聞きませんでした。愉快ですな」
 ふたりはくっくっと含み笑いをいたしました。
 清めの儀とは、猟師に正面から勝負を挑むことなのでした。

 

 さて、ウサギと分かれた狐侍は果し合いの指定場所にむかって草を踏み分けて進んで参りました。
 相手は馬鹿梵土(ばかぼんど)と呼ばれる浪人でありました。馬鹿は馬鹿の馬鹿、梵土は涅槃(ねはん)、ニルヴァーナのことであるとのことでした。しかし伊太利亜語であるとのうわさもありましたし、そういう名前の漫画があるといううわさもありますが、読んだこともないので馬鹿にするつもりも無論ないのでした。
 「貴殿が馬鹿梵土であられるか!」
 狐は声を張り上げました。馬鹿は答えとしてつぎのように言いました。
 「馬鹿と梵天、紙一重!!」 
 馬鹿は、と言っても馬鹿にしているのではなくてそれが彼の名前なのです。しかし彼がここで言う馬鹿とは一般の語のことか、彼の名前としての固有名詞なのかはよくわかりません。
 ふたりは刀に手をかけてにらみあいました。

 ばぱーん、と銃声がとおくでいたしました。そのやいな、ふたりは目を反らしませんでしたが、同時に抜き払い、馬鹿の剣が狐を切っておりました。
 銃声のこだまが山間に響きわたっていきました。



Painting : Rembrandt HARMENSZOON VAN RIJN : "Self-Portrait"1669
正岡子規の歌一首 A Waka peom by Shiki Masaoka

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  昔見し面影もあらず衰へて鏡の人のほろほろと泣く      正岡子規




 昔見たその面影もない。
 鏡のなかで衰えた人が
 ぽろぽろと涙をこぼすのだ。

 
 ここでは言ってみれば五七五が前奏で七七が主題というふうに響くように思う。尤もそれはここで歌がとった性格を形容したまでではあるが、総じては短歌は七七に向かい締まっていくリズムがあるとは言えるかもしれない。これらの先人たちはむしろ結句と言って最後の7字を重視しているらしい。
 この歌では鏡の人という言い方がうまい。字数の制限からの簡潔化でもあろうが、それ自体明白な言葉ではないが文脈上疑いもない。それは、芸術上の自己の客観視ということと呼応しているかにも思える。そのことが達者であろうとなかろうともそれが芸術のひとつの帰結であるから。



Photo by (c)Gigi gordianknot.blog74.fc2.com
谷崎潤一郎の和歌一首 A Waka poetry by Junichirou Tanizaki
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谷崎潤一郎

 茅淳の海の鯛を思はず伊豆の海にとれたる鰹めしませ我妹



 字余りで二度停滞する変わったリズムの歌であるが独特の内容を盛って権利を得ている作ではなかろうかと思う。めしませ我妹(わぎも)という結句は素朴で見事だと思う。
 ちょっと見ると鯛が茅淳というところで名産で伊豆では鰹なのかという気がするが、茅淳の海(ちぬのうみ)とは大阪湾の古名であり、関西以西では黒鯛のことをチヌと呼ぶのは古くここで黒鯛が多く獲れたからであるという説が行われているらしい。それでここで言われているのが特に黒鯛だというより、むしろ「茅淳の海の」というのが鯛の枕詞くらいの使い方なのかもしれない。いずれにしてもそれが古名であるなら鯛の高級感に格式というようなイメージも加わるかと思う。だから「鯛はむろん最高だが鰹だっておいしいよ」というようなことだろうか。−或いは特に話しかけられている女性が関西からの人というようなこともありうるかと思うが、とにかく「あれもいいけどさあこれをお食べ」と近しく言っている風である。
 全体としては上手で洒落ていると思う。それでも直截的な感じであり、伊豆というのは茅淳の古名に対して身近であり、かつ日本人には何かしら情緒をかもす地名である。
 木版画家の棟方志功がこの歌を絵つきで彫り出している。又小説「鍵」の挿絵も手がけているようだが、仏を豊満な女体にあらわした志功と谷崎には通じるところがあったものかも知れない。



伊藤左千夫鑑賞 Comments on Sachio Ito's poetry
 

 或女にかわりてよめる

 うつそみに神のゆるさぬゑにしとはかねて思へど猶し悲しも     伊藤左千夫



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 (うつそみにかみのゆるさぬえにしとはかねておもえどなおしかなしも)

 ある女に代わって歌う−
 この世では許されない在り得ない関係であると常々思ってはいた。
 しかしながらそれでもいとしさをおさえることができない。


 伊藤左千夫師の和歌を鑑賞する。ここでする鑑賞については出版ではないし自分の学習のためにしようと思う。従って不備不足、これはいずれにしてもいつでもありうるものだが、もしそれがあればあとで補おうと思う。

 意味は大体訳したような感じだろうと思う。代わって、というのはなり代わってなのか、あるいは、「私は同情し悲しみを己れに禁じえないと」いうふうにもとれるように思うが。
 「えにし」縁、縁むすびということばには「関係」にはない因果や運命感のようなものがやはり濃淡は別としても残ると思う。ともあれ近代風に事実のみに対応したこの言葉で訳した。縁とここで言っても意味がよく通らない。
 なおし の し は強調の助詞で上代語。万葉に倣った左千夫の歌は上代のことばを基本とする。おわりの も はおなじく上代の詠嘆の助詞。
 「うつそみ」は「この世の人」又は「現世」の意で、もと現人(うつしおみ)の約で、のちに「うつせみ」に転じる。うつせみにあてる空蝉の字はしたがって当て字だが、仏教的な意味を添えていて興味深いと思う。ここではたぶん「神」との対比で浮彫りにした「人間」ということで人のほうの意味ではないかと思い直したのだったが、隣にあった類想歌では明らかに「この世」の意味なので同様とするのが自然と思う。
 又「悲し」は愛おしいというほうなら「愛し」かひらがなで書くだろうかと思ったが、どうも左千夫は「悲し」でイトオシイの意味に用いていることがあるようなので意味の上でそう取るのが自然かと思う。いずれに訳しても歌の意味に変りがないように思える。「いとしいからかなしい、せつない」というのがどちらにしても分かるから。
 さて古文の原文はリズムある形式と古文の品格によって遠い風景につながるようなものであると思う。「切れ」ということはすべての形式ある詩形にはさまざまの相であてはまると思う。それはまた呼吸でもある。和歌も俳句も上五で一呼吸ある感じにどうしてもなるような気がする。そして和歌ではシンメトリカルな五・七・五のあとで七・七で畳み掛けるように終わっていく。 
 
   
 左千夫師の歌は文庫で読んでその立派であるのに感嘆したのであった。



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