
ブログで和歌の鑑賞を勉強・研究としてやっていたがすぐに中断していたので、前二回でやったものをおさらいして再開しようと思う。
うつそみに神のゆるさぬゑにしとはかねて思へど猶し悲しも 伊藤左千夫
というのが伊藤左千夫氏のものでは現在までのところ自分には抜群に好きだ。
それを見ると、カ行とサ行が全体において歯ごたえのあるかたちで繰り返されているのがわかる。それがある種の完成した音楽性でまとめているのだろうと思う。しかし、それは言葉の他の要素もあってしっくりするようにまとめていくうちに出来てくる物だと思うから、それでつくっていくという筋のものではないだろうと思う。
神というのは内的に言うと良心(「超自我」・理性)は容易にゆるさないという意味でとれるし、またうつそみ、現世そのものが許さない、というような、死のむこうを見渡した視線も感じられる。そうすると、歌舞伎などでよく表された齟齬、出口の無いジレンマの世界にここでは入っている。
「たしかにこの世で許されないことだとは思うけれども、それでもこのいとしさをおさえることはできない。」というようなことなのだろう。
「かなし」 は上代では悲しさ−愛しさどちらでもあった。せつなさ、か。
・猶 なほ=それでも ・し=強調の助詞
・ゑにし=えにし縁、結びつき
昔見し面影もあらず衰へて鏡の人のほろほろと泣く 正岡子規
正岡子規氏からはまずこれをとったのだが、まず手始めとして、こういう才気が鮮やかなものは便利だ。しかし面白い例だと思う。ここではごく単純な情念がうまく表現されているのは鏡ということを使ったことにあって、それが芸というものを表現してもいる。様式のある芸術というのは、鏡のように澄んだ磨かれた道具を使っていて、ただに感傷にひきこむべく生な意識をむきだしにしようというものでない。むしろ、それが長い生命をもってそこに封入されるためには距離をおいて、リズムと幾何学のある全体で表現を行う。しかもそれでいてそれは有機的であって、記号化された感情ではない。
そういう意味で、ここには生な感情がカタチというものの冷静さと対比されつつ融和しているということが言えそうだ。
この歌をレンブラントの自画像にくらべてみる、ということも不可ではないと思う。
このお話の素描は今回でいちおう終わりです。
第四回
「熊の社」に熊は正座して書をしたためておりました。
「一心不乱」
さて目の前の猿に語り掛けました。
「わたくしは以前人間でありました。それはすこしも悔いておりませんが、熊となることを得まして、より完全なる境を得たかと思っております。」
猿は答えました。
「あなたは大いなる熊になられた。自然があなたに宿した力はあなたを鷹揚にしました。われわれにはあなたはおそるべきものとなられたのです。」
「いえ、自然という物は、いずれにしても戦いの歴史であります。」
しばらく山の風が木々の葉をゆらす音がしずかにしました。
「それでこれからどうなさるおつもりですか。」
「これからまっすぐに、清めの儀にうつりたいと存じます。」
「ああ、そうですか。ご決意のことでございますね。」
「はい。けれどもここでの三年はたのしいものでございました。ある朝などは、起きてみますと縁側に一山の木の実が置いてある。それにすこしはなれてこんどは糞がしてある。それで前の日にどの猿とどういうことをしたかを思い出して笑ってしまったものでした。」
「それは聞きませんでした。愉快ですな」
ふたりはくっくっと含み笑いをいたしました。
清めの儀とは、猟師に正面から勝負を挑むことなのでした。
さて、ウサギと分かれた狐侍は果し合いの指定場所にむかって草を踏み分けて進んで参りました。
相手は馬鹿梵土(ばかぼんど)と呼ばれる浪人でありました。馬鹿は馬鹿の馬鹿、梵土は涅槃(ねはん)、ニルヴァーナのことであるとのことでした。しかし伊太利亜語であるとのうわさもありましたし、そういう名前の漫画があるといううわさもありますが、読んだこともないので馬鹿にするつもりも無論ないのでした。
「貴殿が馬鹿梵土であられるか!」
狐は声を張り上げました。馬鹿は答えとしてつぎのように言いました。
「馬鹿と梵天、紙一重!!」
馬鹿は、と言っても馬鹿にしているのではなくてそれが彼の名前なのです。しかし彼がここで言う馬鹿とは一般の語のことか、彼の名前としての固有名詞なのかはよくわかりません。
ふたりは刀に手をかけてにらみあいました。
ばぱーん、と銃声がとおくでいたしました。そのやいな、ふたりは目を反らしませんでしたが、同時に抜き払い、馬鹿の剣が狐を切っておりました。
銃声のこだまが山間に響きわたっていきました。
Painting : Rembrandt HARMENSZOON VAN RIJN : "Self-Portrait"1669
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