GORDIAN KNOT ゴルディオスの結び目
グレース・ケリー ちゃん  Grace Kelly
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Mikaの歌でも女優でもない、ここで貫禄あるジャズの大御所と対等の演奏をしているグレース・ケリーちゃんは2006年当時で14歳、脱帽です。







Russell Malone & Grace Kelly







Phil Woods & Grace Kelly















続かぬという言うたのに再開する。題して



意思の森・翔太ロー 



 「わたしの内面に入ってこないで。」
 しかし彼女の額にはモニターがついていたので翔太は目を反らしてしまった。さいわいと写っていたのはニュースだったが、これがワイドショーであったらもすこし鬱であろうと思われた。しかしはっとして翔太はじぶんの額に手をやった。つるりぐにゅりと液晶ディスプレイ。なんとなく液晶でよかったかと無意味なことを思いつつも思わず彼は無を念じたのであった。・・・
 だがどうしてこうなったのか。彼は駅のホームのひとびとを眺めながら考えた。するとテレビ番組が額に写っているひとは目がすわっているだけだが、ネットをやっているひとは目がややうつろなのに気がついた。
 いずれにしても、われわれは芸人のモデルに嵌められているのだ。
 と翔太は重ッ太。いつからか芸人たちが客との垣根をとりはらって、仲間内の冗談ごとをおしつけるようになったころから・・・
 それにまた、ずるい普通ぶりかた。醒めていないとはずかしいし暗くってもいけないのだという冷やかしで出来た防御構造。
 がくっと翔太は居眠りで頭部が前にかしいで目が覚めた。そういえば、子供のころ電車のなかでも頭ががくりとそのときは後ろにかしいで窓にぶつけるほど夢中で遊んだなあ、寝ぼけて意味のわからないことを言いながら居間に出て行ったりもしたなあ・・と翔太はゆるい目つきで思い出した。
 そうだ、とにかく進んでいく時代なんだ。これは悪いことも大きいが、それだけじゃない。漱石はたしかに品位のある観点をもっていた、でも知と文の時代は顧みるということに還元されすぎてしまったのだ。われわれは総じて、「批評家からの大脱走」をつうじて自分の文化を築いてきたのだ・・・
 このように翔太はぐるぐると考えたが、彼の目はじゅうぶんにいまや引き締まっていた。



 夢


 「妹をまもらなければ、僕が。」
 たしかにじぶんには妹がいない、はずだ。翔太はこどものころの夢を思い出した。
 幼稚園で好きだった女の子の夢だった。その子はじぶんの家族のひとりになっていて、お気に入りの食器を使っていっしょにご飯を食べ、夕日のなかに皆で立っていたような気がした。
 翔太は座敷わらしのことを思った。

 遊んでいるうちに、いつのまにか、こどもの数が増えています。みんなまえからいて知っている子なのですが、何回数えてもひとり増えているのです。
 こんなのが、座敷童子です。

 狐の嫁入り。座敷わらし。人形の嫁。座敷わらしの嫁。桃の節句の雛人形。

 ひとりふえているよ。あの娘はだれ。
 ふりかえるとそこには桃の花を咲かせた枝が花瓶のなかにありました。
 はなやかな色の着物の娘の影を追いかけていくと、切られてしまった桃の木の畑に来ました。
 
 それは黒澤明の夢で、桃の花のおはなしです。
 
 座敷わらしの嫁、そんな話はありません。
 いいえ、それは翔太の夢でした。座敷わらしの嫁入りのお話です。

 


小野さんとJAZZ


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リンク:日本人と『カントリーロード』




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付録読切



とんとん、てけてってんてん・・・・♪




気の向くままに、ちょっとばかばかしいお話を。




舞い蹴る上段  (或いはキュビズム的素描ないしまどろみの思考)


「危険が、あぶない。」
翔太は想っ田。不安のパラソルが彼の心のうえに広がりはじめた。彼はパソコンでなければ使わないであろう難しい漢字を使っているのがばれるのが恥ずかしいのであった。そのくせ文脈のうえで不自然な小むずかしい単語を使ってしまっていることは彼の知性のテーブルのはじから気づかないうちに落っこちて猫がふしぎがっていた。
「妹を、守らなければ。ぼくが。」
しかし前後の文章など全体から立ち上るにおいは彼も彼の妹も存在しないということを明白に示唆しとった。
「夢のわたしはわたしであるか、非実在か!」
翔太は文章に示されたおのれの実在の否認に果敢に立ち向かった。
そう、わたしは重う。
翔太はまろびながら嘔吐し、その反吐は輝きかれの目は涙にぬれる。太宰治が使った悪い強調の原則、文章の印象主義といったものを卑俗にしたものがかれの胃を刺激する。
ところが、である。
翔太はいまやうめきながら胃液をまきちらし転げまわる。猫はふしぎそうにかれを見ていた。
そこで翔太は苦しみの和らいだ苦い幸福感にぼんやりひたりながら考えた。これではむしろ太宰が素人文芸の大将として攻撃した作家の簡潔さをほめた、あのだれだったかの文章を薦めたほうがまだいいではないか。


続かない


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TIME MACHINE − 夏樫


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TM NETWORK LIVE VIDEOS.

1.1974
2.ACCIDENT
3.永遠のパスポート
4.HUMAN SYSTEM
5.1/2の助走
6.JUST ONE VICTORY
7.SEVEN DAYS WAR
8.NIGHTS OF KNIFE





 









銀河鉄道の夜 NOKTO DE LA GALAKSIA FERVOJO


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 「銀河鉄道の夜」関連のプレイリストです。一曲目は細野晴臣(YMO)の、アニメ映画のテーマ。
 それから「千と千尋の神隠し」の列車のシーンの音楽ですがこれは関連があります。それは、宮崎駿監督がこのシーンについて長い話を用意したのに時間の関係上やむなくカットしたということで、そのエピソードについて、スタッフに対して「『銀河鉄道の夜』の本当の意味」と説明していたそうです。僕もその話は知らなかったですがやはり銀河鉄道を連想しました。・・
 あとはおなじく久石譲さんの「銀河鉄道の夜」これはたぶんイメージアルバムみたいなものですか。
 あと、YMOの曲で関係はないのですがぴったりのがあったので最後に入れてみました。

 



 Image source 
 http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20060802_milkyway/
テレビジオーネ Televisione

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 テレビに関してすこし思うところがありのろのろ書いている。(長い論理の一部なので続けないと意味があまりないのだけど。)

 どうも最近に日本では何につけ神経過敏な反応が報道に関してあるような気がちょっとするけれども、また一方ではまあイタリアでもそうかなということがある。それは、最近の反動的な傾向のなかで、乱暴な斬って捨てるような雑駁な調子のひとが何か頼りになるというような感じがあるのではないのだろうか。

 実際に性格の力というのかそういうひとに物が見えているという場合もあることではあろうけれども、結局は実際の例が政治家のほうなどで出てみると、やはりそういう慎重さの欠けたべらんめえといういうのはとても公に発言をする立場にある資格がないということがわかってきたように思える。(最近もある著名団体が解消したことに「天罰だ、ざまあみろ」と発言した別の団体の代表がいたけれども、反感を感じていると後日謝意が報じられていてみっともないことであった。関係者間の個人の感情だけであってファンや参加者、一分野の利益がまったく顧慮されていない。言い方を変えるだけで個人の見解として通るものになるのだが。)

 何を考えていたかというと、つまり報道のほうでも(お粗末な)煽動政治家を思わせるそういうのが表に出てきたように思えたのであった。イタリアでも一番よく出てくるキャスターがちょっとそういう感じがあって個人的に見られないのだった。まあイタリアではとくに雑駁な感情的表現はテレビでも何でも当り前で自分にとっても普通だけれども、司会者、とくにキャスターのような立場の人だと耐えられない。


 過剰演出が(積極的なレベルで)ものを見えなくする、というように見れば商業的な今の文化の多くに当てはまる気がする。(たとえば最近タイタニックに匹敵するような規模のイタリアの沈没船のドキュメンタリーを見て打たれたけれども、当時は好きだった映画の「タイタニック」を見たときにはほんのすこしでも現実のタイタニック号事件について考えなかった。ああした演出を私はハリウッド的な「すごいでしょ主義」とか「圧倒主義」とか呼んでいて当時から悪いとは思っていたが、話はいいなと思ったのだった。)



仲秋や Autunno inoltrato
 


  
  こないだイタリアのテレビはドキュメンタリーが多くて充実していると書いたのだが、じっさいその次の日にはダイアナ妃のものを見ながらコマーシャルのときはべつのチャンネルでチャールズ皇太子の母エリザベス二世についてのものを見ることができた。ダイアナ妃の物語には高潔なものがあると同時にひじょうに人間的で卑近なものがある。じっさいにはメディアがいろんな側面を暴き立てたということもあるだろうし、陰謀説があるとしてもやはりあの最後の事件はメディアの責任やモラルについてのつよい意識を喚起し続けてほしいと感じる。

 (ただ番組を見ていて思ったのが、テレビ番組のBGMで有名な曲ばかりを使うと非常にわずらわしいということだった。それらの曲はつよいイメージをそれぞれ持っているので本編への意識をそらされてしまう。それなので最後に「風のなかのともし火のように」と言って "Candle in the wind" が流れ出したときには、ひきこまれていたのだが「もういいよ」と言ってテレビを切ってしまった。)

 とにかく、 映画、外国のものをふくめた刑事や法廷もののドラマ、クイズ番組に並んでドキュメンタリーが多くて勉強になるのだが、日本の場合のようにスタジオのトークに解消してしまうようなところがない(専門家はむしろ必ず登場する)。これは反応や考えることも同時にテレビに任せていると解釈できる気もするが、どちらにせよ自分については個人的にそのほうが精神的に不消化になっていると感じる。また時間を十分にとっていてどれも日本の特別番組くらいの長さがある。ドキュメンタリーはすくなくともきっかけとして感情的な興味・関心のほうからさまざまな領域を学び知ることができる大事なものだと思う。

 つづく。

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